明治のルイス・キャロル C @ A B 明治のルイス・キャロルC 〜最終回〜丹羽五郎編『子供の夢』 川戸道昭 (『翻訳と歴史』第5号、2001年3月刊、より) 前回紹介した丸山英観の『愛ちやんの夢物語』に続く明治期の『不思議の国のアリス』の紹介に、『お正月お伽噺』 (スミヤ書店、明治44年12月)という翻案作品がある。わたしがこの本の存在を知ったのは前に紹介した石川春江氏の 『国立国会図書館の児童書』(創林社、1980年)という書物であったが、この本には一つ大変重要な点で不明な事柄が ある。それが誰の手になる翻案なのかまったく明かされていないのである。扉の「編者」名や奥付の「著者」欄には記載 はあるが、「うさぎ山人」という架空名がしるされているだけで、それが一体誰なのかまったくわからない。石川氏にもそ の正体はつかめなかったようで、「『お正月お伽噺』の訳者のうさぎ山人は本名その他まったく手がかりがない……」と お手上げの状態であることが述べられている。 なにか名前を隠さなければならない特別な理由でもあったのかと思っていろいろ調べているところに、その手がかり になるような情報が入ってきた。先日、大阪明浄女子短期大学の助教授・千森幹子氏が、イギリスで発行されている 『The Lewis Carroll Journal(ルイス・キャロル・ジャーナル)』(No.6, Autumn 2000)に、「TENKEI HASEGAWA'S KAGAMI SEKAI: THE FIRST JAPANESE ALICE TRANSLATION(長谷川天渓の「鏡世界」、日本で最初の『アリス』の翻訳)」とい う論文を発表されたということで、わたしのところにも1冊送ってくださった。その日英比較文学研究に一石を投じる重要 な論考の「Bibliography」に、わたしのまったく知らない「Niwa, Goro, adapted. Kodomo no Yume」という書名がしるされて いたのである。早速、同書の中身を調査してみたところ、大変驚いたことに、その本は、一部を除いて、上記の『お正月 お伽噺』と同一の内容であった。正式な日本語名は、丹羽五郎編『子供の夢』(籾山書店)というもので、その発行日は 明治44年4月1日とあるから、『お正月お伽噺』より8ヶ月前に発行されたものである。つまり、後者は前者の複製版であ ったということになる。道理で「うさぎ山人」などという架空名を名乗らなければならなかったわけだ。しかし、それがまっ たくの版権侵害によるものであったかというと、そうともいえないようで、奥付には「市内代理店」として『子供の夢』を出 版した籾山書店の名前も記されている。そうした点からみると、どうもこれは『子供の夢』の売れ残った本を、装いも新 たに『お正月お伽噺』と銘打って新年の読みものとして売り出したものではなかったか。 しかし、題名の違う二つの本が存在するということがわかった以上、ここに使用するテクストとしては、当然、最初に出 版された『子供の夢』のほうを用いる必要がある。したがって、『お正月お伽噺』に関しては、以下に『子供の夢』との違 いのみを記しておくと、まず、装丁と表紙の絵が異なっている。表紙には例のテニエル描くところの、洋服のポケットか ら懐中時計を取り出しているうさぎの絵が描かれ、その横に「お正月お伽噺」の表題が色違いの文字で縦に記されてい る。さらに中扉をみると「不思議な初夢/お正月お伽噺/洋服姿の白兎」という表題・副題が掲げられ、その下に「うさ ぎ山人編/椿花山人画」と編者と画工の名前がしるされている。一方、『子供の夢』のほうは、表紙には、バラの枝をつ かむ大きな手とその周りを動き回るトランプの形をした小さな人間の姿が描かれている絵が用いられ、中扉には、「長 編お伽噺/子供の夢/丹羽五郎編」という白抜きの文字が掲げてある。双方の内容が大きく異なるのはそれに続く数 ページで、『お正月お伽噺』のほうは、「子供の夢に就て」という編者の序文5ページと、次の目次2ページがすべて省か れている。そのあとの本文は、1ページから254ページまでまったく同一の組み版・さし絵からなっており、最後の、姉の 夢について述べられた4ページだけが、どういうわけか『お正月お伽噺』においては省略され、章全体の表題も「妹の夢 と姉の夢」から単に「夢」に変更されている。以上の点をのぞくと、巻末の奥付、広告以外、両者まったく同一の内容で ある。 二つの書物の異同に関してはそういうことだが、実際その内容は原作者の意図をどこまで反映させた翻案となってい るのか。その点を確認するために、著者がこの本を著すに至った経緯に注目してみると、巻頭の序文にこうある。すな わち、著者には「動物の絵や動物のお噺が大好き」な息子がいて、その息子に『不思議の国のアリス』の原書を見せた ところ、大変興味を示し、毎日少しずつ話して聞かせたことが本書の著されるきっかけであった、と。動物のはなしや絵 が大好きな子どもに聞かせることを目的とする以上、当然、その内容は日本の子どもにも理解可能なようにある種の 変更が加えられている。なかでも目につく変更は、各章の冒頭におかれたさし絵に関するものである。全部で20葉ほど あるそのさし絵には、原作のテニエルの絵をもとに描いたと思われるトランプの王や女王の絵にまじって、猫や鳩、ね ずみ、熊、象といった動物の絵が数多く登場する(そのさし絵の筆を執ったのは、著者の息子が常日頃「僕の好きな叔 父さん」と呼んで親しんでいた芳村椿花であったという)。 それに加えてもう一つ、この書物における重要な変更点は、物語そのものへの変更である。その変更がどのような種 類のもので、どの程度原作に手が入れられているのか、その点についても序文の中で明らかにされている。それによ ると、主な変更点は次の三点であった。 @原作中「言葉の洒落が土台になつて居る処などは、日本語にしては全然無意味のものに成つて了ふ」ので、「噺の 筋道を変」えた。 A「日本の子供に親密でない鳥や獣」は、子供たちの「感興」を引かないと思って変更した。 B「作中の人物や動物の対話」も、西洋の風俗習慣と密接に関連していて日本の子供たちにわかりにくいものは、 「自由に手加減を加」えた。 以上の点を総合すると、序文の冒頭にあるとおり、この「お伽噺の大体の結構はLewis CarrollのAlice's Adventure in Wonderlandから来て居る」が、「骨は外国のもの、肉は内国のもの」であったということになる。 原作にこうした変更を加えた結果、どのような種類の翻案作品が生まれることになったのか。それを一目でわからせ てくれるのが、物語の手短な要約として各章の冒頭に掲げてある表題である。この翻案作品は、原作と同じように12章 からなっていて、章の一つ一つに題名が掲げてある。第1章は「洋服姿の白兎」、次が「涙の池」、3章が「上陸」と、はじ めのうちこそ原作の内容と歩調を合わせた無難な題名になっているが、次第に編者の本領発揮とあいなって、4章は 「窓一杯の大きな手」、5章は「莨を吹かす芋虫」となにやら怪しげな表題に変わっていく。さらに、六章になると「鳩の巣 を覗く轆轤首」、七章は「化物屋敷の台所」、八章は「金目の黒猫」と完全に「骨は外国のもの、肉は内国のもの」として の翻案作品の本質が浮かびあがってくる。「鳩の巣を覗く轆轤首」などというのは一体原文のどこを取りあげた紹介な のかと思って内容を確認してみると、例の原作第5章の後半にでてくる、アリスの背丈が急にのびて、ひょろ長い首で樹 木の上から鳩の巣をのぞく場面である。その次の「化物屋敷の台所」というのは、原作第6章の公爵夫人が豚の子をあ やすかたわらで、料理女が胡椒をきかせ過ぎのスープをかき混ぜている場面というように、いかにも和洋折衷を旨とす る翻案作品の内容がこれらの表題からは伝わってくる。 では、そのような翻案作品の内容がどこまで原作者の意図に即した内容となっているのか。その点を確認するため に、第九章の「年が年中午後3時」を例にとって具体的な中身の点検を試みることにしよう。これは題名を一目みてわ かるように、原作第7章の「狂ったお茶会」の翻案である。例の、アリス(この翻案では「綾子さん」となっている)が、三月 ウサギと帽子屋、それにいねむりネズミが行うティー・パーティーに加わって、時間について議論をかわす場面である。 帽子屋がいうことには、「時間というのは仲良くなりさえすればいつでも自分の望みどおりに動いてくれる」。たとえば、 「今が午前の9時で授業の始まる時間だとすると、時間に向かってほんの一言ささやくだけで、またたくまに昼食の時間 の1時半になる」のだという。アリスが、「そういうことをあなたはやっているのね」と聞くと、帽子屋は、「以前はそうだっ たけれど、今は時間と喧嘩をしてしまって」、「時間は自分の頼むことを何ひとつやってくれようとしない」。「それで今は いつでも午後6時なんだ」と答える。午後6時というのは、これが書かれた時代の英国のお茶の時間で、表題の「狂った お茶会」とは、1日中もよおしているその茶会のことをいっているのだと、合点がいく次第である。 『子供の夢』では、これを日本のお茶の時間に直して「年が年中午後3時」とした上で、そこにでてくる動物も「三月ウ サギ」を「野兎」に、「いねむりネズミ」を「栗鼠」に変更している。つまり、先ほど示した序文の断り書きでいうと、AとB の、「日本の子供に親密でない鳥や獣」、あるいは、なじみの薄い習慣は自由に「変更」を加えたということに該当する。 それともうひとつ、この場面における重要な変更点は、キャロルの原文では時間が擬人化されていて、帽子屋が時間と 仲良くしたり喧嘩をしたりする話がでてくるが、『子供の夢』の編者はそれを時間を操る魔術の話に変更している。これ も、先の変更と同様、日本の子どもたちの理解力を考慮した結果の変更であったと思われるが、原作にそのような変 更を加えた結果、実際どのような物語が出現することになったのか、それを点検するために以下に帽子屋と「綾子さ ん」の間でかわされる会話のさわりの部分を引用してみよう。 《『私達が時間の魔術を遣つて、時間を自由にして居た時分にはねエ、……。まあ恁うだつたんです。譬へて見ますと、 今が朝の9時だとするんです。ホラ学校なら課業の初まる時間でせう。その時口の中で、 時間よ、時間、 お午におなり、 と、恁う云ひますとね、時計の針が自然にグルグルと廻つて、チンチンチンチンと12時を打つんです。そら、お弁当の時 間になるぢやアありませんか。……』 『併しそんなに早くはお腹が減かないでせうにねエ』 『それは左様です。併し其の時復た口の中で、 時間よ、時間、 お午でとまれ、 と、云つて置けば時計は何時までゞもお午なんです』 『まあ、重宝ねエ』 『重宝でせう。けれども其の重宝な魔術を悉皆忘れて了つたんですよ。そればかりでなく、今ぢやア、時間が何時でも午 後3時なんです。最早少許も進まないんです、止まりツきりで』》 ここに引いたのは帽子屋の話の前半部分で、このあとどうして彼の「時間が何時でも午後3時」でとまってしまったの か、その経緯が語られる。これは一連の話のなかで最もおもしろい部分で、キャロルの文学ファンにとって見逃せない 場面なのだが、その内容を簡単に要約すると、こういうことになる。すなわち、帽子屋はつい最近、女王の宴会に招か れて、彼女の前で番犬の唄を歌ったが、その途中で女王から「此の者は時間を空費にして居る、首を斬つて了へツ」と いきなり申し渡される。野兎の必死の嘆願でなんとか首は斬られずにすんだが、その代わりに帽子屋も野兎も時間の 魔術を取りあげられた上、それ以降2人の「時間は、年中午後3時」と決められてしまったのだという。 『不思議の国のアリス』を読んだ者ならばすぐに気がつくところだが、このストーリーには原作をだいぶ変更した箇所 がみられる。先にも指摘したとおり、原作では、帽子屋が時間を自在に操れなくなった原因は、女王から魔術を取り上 げられたためではなく、時間と喧嘩をしたことにある。その喧嘩のきっかけが、ここにあるように女王の催す音楽会で歌 った唄にあったことは間違いないが、唄は番犬の唄ではなくて、例の有名な「キラキラ星(Twinkle Twinkle Little Star)」 の唄である。その唄を帽子屋がところどころ歌詞を入れ替えて歌った(たとえば最初のlittle star をlittle batに替えて Twinkle, twinkle, little bat!と歌ったり、2行目のyou areをyou're atに替えて How I wonder what you're at!と歌った)もの だから、字あまりや字足らずの箇所が生じてすっかり唄の調子を狂わせたとして女王は帽子屋の「首を斬れ」と命じた のである。問題は、そのとき女王が使った「唄の調子を狂わせた」という言葉にある。その言葉を原文によって確認す ると「He's murdering the time!」というもので、そこには「〔唄の〕調子(time)」を「だいなしにする(murder)」という意味 と、「時間(time)」を「殺す(murder)」という二重の意味がかけられている。つまり、女王の前で唄を歌ったことと、時間と 仲違いすることが一つに結びつく理由は、この「こやつは、唄の調子を殺してしまおうとしている(He's murdering the time!)」という言葉にあったというわけだ。言い換えれば、帽子屋の話の核心が理解できるかどうかは、この女王の使っ た言葉の意味を正しく理解できるかどうかにかかっているということになる。『子供の夢』では、これをまったく別の意味 に解釈して、「此の者は時間を空費にして居る、首を斬つて了へツ」とした。つまり、「時間をつぶす(kill time)」という意 味に解釈したというわけだが、これは先に掲げた序文の断り書きでいうと、@に示した、原作中「言葉の洒落が土台に なつて居る処などは、日本語にしては全然無意味のものに成つて了ふ」ので、「噺の筋道を変」えたという変更と受けと めていいものだろう。 明治の翻案作品はそれでいいとして、原文重視の現在の翻訳者たちはこの女王の言葉をどのように訳出しているの か。そう思って、いくつかの翻訳書にあたってみたところ、驚いたことに、ほとんどが、『子供の夢』同様、「時間をつぶす (kill time)」の意味に解釈しているのである。たとえば、柳瀬尚紀訳(ちくま文庫)は「お歌詞(かし)いぞよ! 時間をつ ぶす気じゃな! この者の首をはねろ!」とあるし、北村太郎訳(集英社文庫)は「この男、時間を殺しておる! 首を はねよっ!」となっている。尾上政次訳(南雲堂学生文庫)も、「あれは時間を殺しています! 首を切っておしまい!」 と北村訳と同様な受けとめ方をしている。ここで尾上氏が「時間を殺す」の意味を、「時間をつぶす」の意味で使ってい ることは明らかで、その注釈には「『ひまつぶしをする』を"kill the time"というが、それを大ゲサにこういつた」とある。た しかにそれでも意味は通じなくはないが、その解釈では、女王が帽子屋の唄を聞いて「He's murdering the time!」と憤 慨したのは、単に下手な唄を歌って「時間をつぶした」ためとなり、歌詞を勝手に入れ替えた唄を歌ったこととの関連性 が浮かびあがってこない。帽子屋が唄の「第1節を終わりもしないうちに」、女王が突然とびあがってこの言葉を叫んだ というところから判断しても、やはりこれは「〔唄の〕調子(time)」を「だいなしにしている(murdering)」とかけた二重義語 と解釈したほうが当を得ているように思われる。日本の読者がこの作品の随所にみられる言葉遊びをきちんと理解す ることのむずかしさを物語る一つの好例といえるだろう。正直言って、わたしもマーティン・ガードナー(Martin Gardner) の『注釈アリス(The Annotated Alice)』(Penguin Books, 1965)の助けを借りなければ、「時間」を「殺す」という言葉の背 後に存在するもう一つの意味には気づかなかったほどである。 しかし意味はそれでいいとして、この帽子屋の替え唄に端を発する一連の経過を日本語に翻訳するとしたら、一体ど のような方法が考えられるのか。この問題は、単に女王の使った二重義語をどう翻訳するかという問題にとどまらな い。それだけならば、「こやつは、唄の調子(タイム)を殺してしまおうとしている」と、ルビを振って何とかごまかすことも 可能だが、それを「キラキラ星」の唄と関連づけて、その歌詞を入れ替えたことが「唄の調子=時間」を「殺す」ことにつ ながっていくということを日本の読者にわからせるのはそう容易なことではない。そもそも「キラキラ星」の歌詞というの は、日本の誰でもがそらんじているような歌詞にはなっていない。その歌詞にこだわるかぎり、それをどのように翻訳し てみたところで、字あまり字足らずの感じを出すことはむずかしい。それならば、いっそうのこと日本の童謡(たとえば 「ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ」)にでも変えて、その歌詞を入れ替えたほうが、唄の調子を狂わせたという感じはず っと表現しやすいことになる。つまり、この種の言葉遊びを日本語に置き換えるには、多少なりとも「創作」「翻案」の要 素が入らざるをえないということになる。 そのように考えるてくると、『子供の夢』の編者が、その唄を番犬の唄に替えて「夜番の犬が眼をさまし、ワンワンワン ワン、吠え立てる」と訳出したというのもまったく無意味な試みではなかったように思われる。とりわけ、それが明治時代 の、しかも子どもに読ませる翻案作品であったということを考えると、そのような改作もときには有効な手段であったと 思われるのである。要は、そうした方法を用いて原作にみなぎるナンセンスな雰囲気をどこまで訳出できたのかという ことである。そのような観点から、「年が年中午後3時」の内容を検証し直してみると、これはこれでなかなか興味深い 『不思議の国のアリス』の翻案なのである。とくに、帽子屋が女王から時間を自由に操る魔術を取りあげられ、それ以 降、時間は「年中午後3時」と定められてからの、帽子屋のおかれた困難な状況には、キャロルの作品ならではのナン センスな面白さがよくにじみ出ている。たとえば、この一連の話を締めくくる「綾子さん」と帽子屋の会話は、こんなふう になっている。 《『あゝ、それで恁う遣つて珈琲を飲んだりして居るのねエ。つまり始終茶請(おやつ)の時間なんでせう』 『左様なんですよ。始終茶請の時間ですから、恁うして並てあるお茶碗でも何でも退げる遑がないのです』 『私、それで悉皆解つてよ。恁んなに沢山お茶碗がある訳も。必然、退げて洗う遑がないから、隣へと順に椅子を替へ て行くのぢやなくつて』 『左様です。左様です』 『けれども一廻りして了つて、復た旧の位置へ帰つて来たら、何うするの』》 話の締めくくり方としてこれは実にうまい方法である。「綾子さん」がここで発する「けれども一廻りして了つて、復た旧 の位置へ帰つて来たら、何うするの」という言葉は、帽子屋のおかれた困難な状況を読者の心に焼きつけるには十分 なものだろう。そのなんとも不合理な状況に読者の関心を向けておきながら、この「午後3時」と題された本章の「(中)」 の章は忽然と終わりを告げるのである。あとには、ナンセンスな笑いと、すこしばかりのペーソスがいつまでも読者の心 に消えやらずに残るという次第である。 このように『子供の夢』という作品は、現在の翻訳と比べてみてもそう大きく見劣りのするものとはなっていない。確か に、ところどころに大胆な改作はみられるが、それが明治の子どもたちのために編まれた翻案作品ということを考える ならば、これはこれで一定の評価を与えなければならない作品であろう。とりわけ、日本人にとって『不思議の国のアリ ス』の翻訳とはどうあるべきかということに対し一つの解答を示しているという点で、現代の翻訳とも同列に並べて長短 を論じることのできる作品ではないかと思う。キャロル作品の日本語訳という、決して結論をみることのない難問にいど んだ最も初期の作品としても、歴史の塵に埋もれさせてはならない作品なのである。 最後にこの翻案小説を書いた丹羽五郎という人物であるが、いろいろ資料に当たってみたが、生まれや経歴等に関 してはまったくわからなかった。明治20年代に『警察宝典』(いろは辞典発行部、明治26、7年)などを出版した同名の人 物はいるが、明治30年代には北海道に渡り、開拓事業を志した(『明治人名辞典U』日本図書センター、1988年)とあ るところから、どうも『子供の夢』の著者とは違う人物と思われる。また『子供の夢』の巻末の広告には丹羽後之助とい う人物が『イソツプ唱歌』を編み、『世界の猛獣』という書物を出版する予定であるという記事がみえるが、その丹羽後 之助なる人物との関係もはっきりしない。詳しいことは今後の調査にまちたいと思う。 受贈文献紹介 日本における『アリス』作品の翻訳・翻案を比較文化的観点から読み解く作業を精力的に進めている大阪明浄女子 短期大学の千森幹子氏より7点の論考をご送付いただいた。7点のうち5点までが英文で書かれたものであり、日本の 『アリス』受容の諸相を広く世界に紹介する上で大変貴重な文献となっている。内容的にも、日本におけるルイス・キャ ロルの受容の問題を独自の観点から掘り下げた興味深い論考であり、本誌の読者にも興味を懐く人が多いと思うの で、以下にその書誌を掲げておく。 「「赤い鳥」と『アリス』」(『大阪明浄女子短期大学紀要』9号、1995年3月) 「Japanese Through the Looking Glass in the Golden Ship Magazine」(『ミッシュマッシュ』2号 1997年12月 日本ルイ ス・キャロル協会) 「『アリス』画家ラルフ・ステッドマンとキャロル没後百年」(『ミッシュマッシュ』3号 1998年11月 日本ルイス・キャロル 協会) 「Modern Japanese Translation of Alice」(『比較文化研究』40号 1988年) 'Shigeru Hatsuyama's Unpublished Alice Illustrations', in The Lewis Carroll Journal No.4, Autumn 1999. 「The Readership of Early Japanese Alice Translations」(『比較文化研究』48号 2000年3月) 'Tenkei Hasegawa's Kagami Sekai', in The Lewis Carroll Journal No.6, Autumn 2000. |