江戸時代庶民文庫 82巻 饑年要録ほか
第2期第5回(全5巻・81~85巻)配本所収
発行年月:2020年5月
価格:18,700円(本体17,000円+税10%)
ISBN:978-4-86688-082-2
体裁:A5判・380頁・上製・クロス装
特記:分売可
【ジャンル】書名(主な作者/刊行年など)
【災異(地震・救荒)】
○饑年要録(福沢憲治/天保7年)
○救荒孫之杖(雲洞/天保8年)
○社倉勧喩并附言(足代弘訓・沢屋重右衛門/嘉永4年)
○凶荒図録(小田切春江/明治18年)
○地震考(小島濤山・小島東隴庵/文政13年)
○地震年代記(無名氏/安政3年頃)
○〈御府内・五街道〉大地しん(御安台賤丸/安政3年頃)
○饑年要録(福沢憲治/天保7年)
▽信州伊那郡上穂村(現・長野県駒ヶ根市)の豪農で、天保3年以後続いた飢饉に米倉を開放して炊き出しを行い、野草を食料とする研究も進めた福沢憲治が、飢饉の最中に著し自ら施印した救荒書。必要悪の飢饉に対処するには日頃の心掛けが大切なことを諭したうえで、天文14年、寛永19年、延宝3年、天和元年、享保17年、天明3・6年と周期的に飢饉が発生した歴史を振り返りつつ、とりわけ被害が甚大だった天文14年、天明3・6年、天保4年の飢饉については経緯や惨状を詳述する。そして、恒常的な飢饉対策の必要を指摘し、倹約と吝嗇の違い、非常時の備蓄(義倉)の必要性、為政者による倹約・備蓄・防災の教諭、救荒食物(代用食)のあらましを記す。昭和11年(1936)刊の複製本も抄録。
○救荒孫之杖(雲洞/天保8年)
古代から天保期にいたる日本の飢饉の歴史や飢饉の惨状、また、飢饉の予兆や越後における飢饉について述べ、さらに、飢饉時の救荒食や、瀕死の人に対する救命法にも言及した絵入りの救荒書。内容は「本朝飢饉運数之事」「飢饉先兆の事」「奥羽飢饉風説の事」「古今人情生計くらべ」、「飢饉扶食糧製(実類・根類・嫩葉類・荒地に植べき物・干糧にして長貯へらるゝ物・海産長く貯へらるゝ物・獣肉・糧物の心懸に蒔植べき物・粃味噌製法・飢饉の時、雑食いたし喰あたりに用る法)」「各種救命法(餓莩を救う法、并餓人凍死の救法・縊死を救う法・溺死を救う法ほか)」など。
○社倉勧喩并附言(足代弘訓・沢屋重右衛門/嘉永4年)
飢饉・災害等の非常時に備え穀物を備蓄する「社倉」の方法と心得を説いた書。社倉法は、朱文公『社倉記』や張文嘉『斉家宝要』で説かれ、山崎闇斎『朱子社倉法』によって日本にも広く紹介された。「夫、善事を行ふ事は、人を救ふより大なるはなし。人を救ふには、飢饉年に過たるはなし」と起筆し、飢饉時に財力のある仁者が力の及ぶ限り救援活動するのは当然だが、仁愛の気持ちはあっても財力が乏しければそれは叶わない、こんな時、古人が考案した社倉法は、「世のさまたげにもならず、国の費にもならずして人を救ふの趣法」であると述べ、各地に「連」を結成し、一人一人が一日銭一文ずつを貯金し、それを集めて米穀を備蓄する積小為大の心掛けを推奨する。
○凶荒図録(小田切春江/明治18年)
享保・天明・天保の三大飢饉の惨状や逸話を、『報徳記』『農業全書』『続西遊記』『農喩』『天明年中凶歳日記』『饑年要録』『済急記聞』等に取材して描いた絵本(原本は淡彩刷り)。見開きを基本とする挿絵で、「二宮金次郎先生、茄子を喰して凶荒を知る図、付、貝原楽軒翁の喩言」「名古屋藩施行の図」「道路に於て飢人砂を喰ふ図」「九州地方凶荒、橘南谿翁話の図」「西国飢饉、金を持て餓死せし図」「奥州凶歳、飢民出羽に流落する図」「同児飢て母の乳房を喰切、并に、親の股に喰付図」「同一村尽く餓死して亡所となる図」「鈴木金右衛門、衣服を売尽して窮民を救ふ図」「義農作兵衛、種麦を枕として餓死する図」「凶歳に塩気を含める筵を熬りて食する図」「蟻蜂食を畜へて冬春を凌ぐの図」など18図
を掲げ、総振り仮名の平易な解説文を添える。巻末に「救荒草木一覧」と「有毒草木一覧」を付す。
○地震考(小島濤山・小島東隴庵/文政13年)
▽文政13年7月2日、申の刻(1830年8月19日、午後3~5時)に発生した京都地震を契機に、地震にまつわる妄説を排除し、本朝の地震の歴史や諸文献『類聚国史』『三代実録』『皇帝紀抄』『方丈記』『天文考要』『本朝天文志』『径世衍義』『天文考要』『和漢三才図会』などから地震のメカニズムについて論じた書。また、人々の不安や迷いを解くため、『天経或問』に基づき、今回の京都地震も地球規模からすれば極めて局地的なものであることを「地球図」を用いて解説し、地震には「心(震源地)」があってそこから四方に揺れが広がることや、各地における大地震の予兆についても縷々紹介するほか、地震を予知した享保年間の盲人四方市の故事や地震の原因に関する考察などを記す。
○地震年代記(無名氏/安政3年頃)
諸文献に基づいて本朝の地震史を総覧したうえで、安政2年10月2日の大地震の詳細を報告した書。『埃嚢鈔』の地震動吉凶の占法や仏説に基づく4種の地震に触れ、安政大地震が「帝釈動」であって決して凶兆ではなく「兎にも角にもいとめでたき世直し」と位置づけ、「上代よりの地震を古今の書籍より鈔略・取詮して、今度(安政大地震)のにいくらも勝る地震数十度ありしかど、世の衰弊するにもあらず、弥栄にさかえて天地と共に窮りなき我葦原の中国の泰平万々歳たるよしを人々に知らせ参らせん」と出版の意図を披瀝する。前半部は古代からの地震の記録を記載し、後半部には、安政大地震の江戸府内の被害状況などを18地域別に、また江戸を起点とする街道筋近郷の罹災状況を、「潰家一万四千二百四十一軒ト千三百三棟、潰土蔵千六百四十九ヶ所…」のように記載する。「須佐之男命が国をゆする図」「東大寺盧舎那仏罹災図」「伏見大地震図」「江戸地震出火一覧」「安政大地震後の御救小屋風景」など6葉の口絵・挿絵を収める。
○〈御府内・五街道〉大地しん(御安台賤丸/安政3年頃)
表紙とも5丁の小冊子で、安政2年10月2日の大地震の模様やその被害をルポルタージュ風に報告したもの。江戸府内各地の惨状を次々列記、周辺部や街道筋の罹災状況にも言及し、今回の被害が明暦の大火を超えるもので死者も数知れず、荷車や船で死体が寺院へ運ばれる有様は見るに堪えないものだが、翌日には鎮火し、時折余震があっても特別な事はないと述べた後で、「町数五千三百七十余崩」「御屋敷二千五百六十余軒損ず」「寺院堂社三万九千六百三十ヶ所」「土蔵の数五億八万九千七百八十六ヶ所」と罹災規模を具体的に示す一方、「軽き者へはそれぞれ御手当・御救米被下置、四民安堵に帰し、鼓腹して御仁徳あふぎ奉るは、実に目出度事どもなり」と為政者の救恤を讃えて、「かゝる凶変のうちにかくまで調集なすは、遠国・他邦の親族へ告知らしめて安堵ならしめんことを思ふの老婆心なり」と記す。
解題者紹介:往来物研究家、往来物倶楽部代表、立正大学・人間総合科学大学非常勤講師、学術博士。(原版作者は各巻参照)
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